2022年7月 8日

誕生

幼少時

1973年11月13日
金木家の長男として誕生。

幼稚園に入る前からかなりの問題児だったらしく、
ご近所皆で広場に植えたチューリップの球根を
次の日に全部掘り起こしてしまったり、
公園のすべり台の上から〇〇〇〇したりと
やりたい放題。

事故に合い入院したこともあったそうです。

あまりのヤンチャさに母親が困り
児童相談所へよく相談に行っていたようで、
その相談所で言われた


「この子はもっと広いところで育てなさい」


川崎市から自然あふれる横須賀へ引っ越すことに。

しかし横須賀で幼稚園に上がっても落ち着くことはなく、
自転車に乗れるようになり行動範囲が広がると
暴走を繰り返して、ついにはコンクリートの壁に激突!

腕を骨折する大怪我を負い、
2度の手術を受けました。

余談ですが当時から今まで、
骨折した左腕での腕相撲では負けた記憶がありません。

その時のリハビリの成果なのでしょうか(笑)

スポーツに熱中した少年時代

野球少年時代

近所に新しく完成したばかりの小学校へ入学。

毎年クラス替えのたびに好きな女の子が変わるという、
坊主頭のお調子者(笑)

2年生になると、
町内のソフトボールチームに入り熱中。

私の世代は第二次ベビーブームで、
子どもがうじゃうじゃいるという時代。

それでも持ち前の運動神経が功を奏し、
4年生で5番ファーストのレギュラーの座を獲得し
チームの優勝にも貢献することができました。

そんな体験から中学校の部活動は、
自然と野球部を選択。

当時は今の時代とは違い、
ウサギ飛びや先輩のシゴキ、
水飲み禁止など過酷な練習環境。

脱落者も出る中、
根性でくらいつき頑張った結果、
5番ショートでレギュラーを獲得。

3年生の時には県大会出場も果たしました。

その後の人生につながる

青年時代

野球に没頭した中学校を卒業し、
高校には入学したものの、
学校生活に馴染めず停学の連発。

友達との遊びやバイトばかりの日々。

横浜スタジアムでビール売りのバイトをしたり、
焼肉屋のバイトではカルビクッパなど作っていました。
土木工事現場や電話配線のバイト、
自動車部品工場などの肉体労働など、
色々なバイトを経験しました。

そんな中、長期休暇で始めた大工のバイトが自分の人生を変えることに。

そのころ好きだったアーティストの "尾崎豊 "の歌詞、


" サラリーマンにはなりたかねえ! "


に影響を受けたのか、
普通に会社員になるという道を嫌い、
この大工のバイトがきっかけとなって、


大工になろう!


と決意。

高校を無事?卒業後に
大工の修業の道を歩み始めました。

つらかった修行の日々

大工時代

入社前は優しかった親方が、
仕事が始まると人が変わったかのように厳しい人に。


食べて無くなるものでなく


使って捨てるものでなく


家はずっとそこに残るもの


" 衣食住 " の住まいは


家族を守り生活を支える場所


目に見えなくなるところもしっかり取り組め!


まだ十代だった私は、
毎日毎日よく怒られました。

電動工具が主流の作業内容のなか、
見習いの私は電動工具禁止!

太い梁材や柱などを加工するにも全て手作業、
丸ノコなどは使わせてもらえず、
ひたすらノコギリとノミ(材木をきざむ彫刻刀の親分みたいなもの)
で手作業、両手ともマメだらけでした。

右手に玄能(げんのうと読みます、カナヅチのこと)、
左手にノミ。

手元が狂い、玄能で何度も左手を叩き
いつも腫れ上がっていました。

でも今思うと、


その時の経験が私の足元を支えてくれている


そう感じています。

たぶん、無人島でもノコギリとノミと玄能があれば
ひとりで家をつくれると思います!笑

大工としての誇りを受け継ぐ

金木建築創業

5年間の修行を終え独立。

1998年に金木建築を創業。

創業したとはいえ、
初めからそんなに上手くいくはずもなく、
仕事はもっぱら下請け工事ばかり。

でもその中で、


飛騨高山の合掌造りの移築


を請け負う工務店との出会いがありました。

その工務店は、
世界遺産に認定されて今では解体することが出来ない、
白川郷の合掌造りの建物を世界遺産認定前に
何棟も解体してストックしており、

日本全国はもとより、
ハワイや南米などにも移築している工務店でした。

お客様より新築工事を受注すると、
まず解体してストックしてある
合掌造りの骨組みを岐阜の作業場で組み立てます。

これは実際に新築を建てるように柱を立て、
梁を架け築200年の家を一度、復元します。

柱の間隔や梁組みを採寸したり、
材料の傷み具合や仕口(しくちと読みます、柱と梁などをつなぐホゾやアリ、カマなどの事)の確認、
そして新たに必要な部屋などの柱や梁を墨付け加工し、
全てをまた解体します。

そしてその全ての材料を新たな土地に運搬し、そこに建てます。

そのような移築の仕事の中で、
私は仲間の大工と4人で下宿生活をしながら、
吉祥寺に移築する現場を担当しました。

昔の囲炉裏のけむりでいぶされた真っ黒な梁は、
大柄な私が両手で抱えても全然届かない直径80cm以上。

幾重にも重なった梁や燻製した竹、
真っ白な漆喰などが調和し、
まさに芸術品のようでした。

そんな先人達の知恵や技術に触れたことによって、


大工としての誇りを受け継いだ


そんな気になれました。

創和ハウジングとして新たな一歩

創和ハウジングに生まれ変わり、仲間も増えました

下請け仕事ばかりだったところから、
少しずつ直接お客様より受注を頂けるようになり、
思い切って会社を法人化することに決めました。


和み(なごみ)を創る家づくりをしたい


との想いから、


「創和ハウジング」


と命名。

大工として一緒に働いてくれていた仲間達を社員に迎え、
新たな道を歩み始めました。

家づくりにかける想い⇒

心揺さぶられた東日本大震災

創和ハウジングとして個人のお客様から請ける仕事も順調に増え、
忙しい日々を送っていたある日のこと。

横須賀市大津町での仕事を終え、
現場を離れた直後でした。


東日本大震災


すぐに現場に戻ると、
停電はしていたものの大きな被害はなく、
ほっとしたのもつかの間。

ニュースで流れる大津波の映像......

次々に目に飛び込んでくる惨状......

理由をはっきりと言うことはできないのですが、
なぜだか居ても立っても居られなくなり、
地震からまだ日が浅いうちに仙台へ向かっていました。

寸断された道路、崩れ落ちた橋、池のような水溜まり、
倒壊した建物、どこからか流されてきた家々、
路上に重なり合った船、漂う異臭、舞う土ぼこり
それまで見たことのない景色が目の前に......

とにかくやれることをとボランティア活動に参加。

徐々に復旧復興へ向けて、
周りが動き始めると、


もっと自分にできることは無いのか......


そう考えるようになりました。

2拠点生活から移住、そして現在へ

考えが行き着いた先、それは、


自分には建築の技術も知識もあるのだから、
きっとそれが役に立つはずだ


私は建築現場を手伝うことを胸に決めました。

仙台でアパートを借り、
横須賀から一緒に来た職人達と雑魚寝をしながら、
仙台の業者の方達と共に働きました。

材料不足で止まっていた横須賀の現場も動き始め、
私は週の半分を仙台、
もう半分を横須賀と行ったり来たりの生活。

行きも帰りも夜行バスという生活が、
何年も続きました。

仙台の人達はとてもやさしく、環境も良かったので、
いつの間にか私と妻も仙台が気に入ってしまい、
当時まだ1歳だった長男と妻の3人で、
家族の拠点を仙台に移しました。

現在は横須賀に戻っていますが、
13歳になった長男は仙台の生活の方が長く、
故郷が2つあるという感じでしょうか。

仙台には大学や専門学校などが多く、
また企業の支店も多いため、
東北六県はもとより、
全国からも大勢の人が集まり、
賑わいのある町です。

私は復興に向け取り組みながらも
2013年には仙台支店を設立し、
地元の大工さんや協力業者の方たちと共に
新たな建築の需要にも対応して参りました。

気が付けば、仙台にきて11年経過しました。

私は、横須賀と仙台を年に50回くらいは往復しますので
もう、550回以上になります。

仙台でこれまでに40棟の新築事業に携わってきました。
そしてこれからも この仙台で出会った方たちと共に、
仙台を盛り上げていきたいと思っております。

大吉ホームに込めた願い

東日本大震災を通じて、
住まいの大切さを身にしみて感じました。

家とは、


大切な家族を守るもの


私は震災前から要望があれば新築も手掛けていましたが、
住宅リフォームや店舗リニューアル、
事務所や工場等の改修工事などが主でした。

リフォームや改修工事は、
建物を解体しながら進めていくのですが、
なかには壁や床の中の見えないところに、
手抜き工事や施工ミスなどを発見することもあります。

一生に一度の高い買い物をして、
悲しい思いをする人がいてはいけない。


自分たちの手で、本当に安心・安全な住宅を提供したい。


そんな想いが強くなり、
本格的に新築工事を手掛ける


自然素材 × 健康住宅の 『 大吉ホーム 』


をたちあげようと決意しました。

私たちのご提供する安心・安全な住宅とは、


目に見えなくなる部分まで誠実に取り組むことで
『 地震に強く、耐久性の高い家 』を実現する。


そしてそれは、
高性能で高品質、そして高価格の
ハウスメーカーのようなものではなく、
住宅としての品質を下げず、
耐震性や断熱性能を充分に満足して頂き、
さらにお手頃な価格でご提供したい。

そんな想いで丁寧に事業計画を立て、
システムキッチンやシステムバスルームなどの
メーカーや 窓サッシメーカーなどと交渉を重ね、
協力業者の方たちにも 粘り強く協力のお願いをし、
非常に長い時間が掛かりましたが、
お客様に満足して頂ける商品開発に成功しました。

最初にご注文頂いたのは 以前より仕事で
お世話になっていた社長様。 

大工時代からの仕事を見てくれている方で、
喜びも格別でした。

お客様の考え方や好みは様々、
間取りや設備、耐震性能から断熱性能、
シックハウスやアトピーなどでお悩みの方、
そんな思いに私は大工としての経験を活かし
悩みに寄り添い解決していきたい。

そして楽しい家づくりを実現し、
共につくりあげていきたいと思っております。

そして、


私の大工の経験は、ハウスメーカーの営業さんにはない
私の強みでもあります。


木造住宅のすみからすみまで知り尽くしている私に
なんでも質問してください!

家を建てよう! でもなにから手を付けていいものやら、、、
そんなお客様の為に、家づくりの無料相談会を実施することにしました。


家づくりで失敗してほしくない!


本来、家づくりとは大きな買い物で、それは楽しいはず。

だけど、何度も経験できるはずもないその大きな買い物は
知らない事ばかりで不安や疑問がいっぱい。

資金計画や土地探し、もちろん住宅のこと、なんでもご相談ください。

『 自分たちの手で、本当に安心・安全な住宅を提供したい! 』

そこから現在も続く私たちの大切なミッション、


『大工ならではの目線で、お客様と二人三脚の家づくり』


が生まれました。

大工として長年経験を積み磨いてきた「職人の技」と「知識」を活かし、
お客様との対話から大切な想いをくみ取り、共に夢をカタチにした住まいを
つくり続けていきます。

25歳で立ち上げた 『金木建築』 から 創和ハウジング、そして 『大吉ホーム』 へ
24年の月日が流れました。

私たちの家づくりも時代に合わせて少しずつ変化していますが、
ずっと変わっていないことがあります。

それは 「家づくりにかける想い」です。


家とは、家族を守るもの。
その家づくりを通して、家族の笑顔をつくる。


私たちはお約束致します。

楽しい家づくりをご提供すること、
そして笑顔あふれる暮らしを願い、
モノづくりの技術や最新の知識を学び続け、
常により良いものをご提供できるよう邁進致します。

お客様の想いと理想の住まい実現を叶えるため
日々研究し、成長し続けたい。

大吉ホームはそんな会社です。


株式会社創和ハウジング 代表取締役 金木貴史

  • イベント
  • ラインナップ
  • ギャラリー
  • リフォーム施工例

カタログ請求

  • カタログ請求
  • 会社案内